twice up vol.11
火灯し頃
週刊誌の連載エッセイに「ひともしごろ」という言葉が出てきた。漢字を当てると「火灯し頃」。あかりをともす夕暮れ時のことである。文中に「戦前の有名な曲に『谷のひともしごろ』という一節があった」とあるが、これはおそらくファミリーソングとして有名な『谷間のともしび』のことだろう。
「たしがれに我が家の灯 窓にうつりしとき 我が子帰る日祈る 老いし母の姿」という歌詞で、昭和9年に東海林太郎が歌っているが、もとは「When It's Lamp Lightin' Time In the Valley」というアメリカの歌である。おなじ夕暮れ時を表現するのに「ひともしごろ」とは、昔の人は風情がある。
さて、歌詞からもわかるように、この『谷間のともしび』は懐かしい故郷の我が家を歌った曲だが、夜な夜な酒場でとぐろを巻く向きに「ひともしごろ」と言えば、真っ先に街灯やバーの看板をイメージするだろうことは想像に難くない。かくいうわたしもそうである。ためしに飲み友だちに聞いてみたら同じ答えが返ってきた。ただ、その友だちは方々に“ツケ”をためているような不良で、「おれの場合、火灯し頃というより逢魔が時だなあ」とひと言。相変わらず口だけは達者だと呆れたが、たしかに火灯し頃――夜の入り口には不可思議な力があると思うことがある。
*
地方に住む知人から、出張で東京に来ていると連絡があった。お母さんから受け継いだ婦人服の店を経営しており、年に数回、仕入れなどの用事で上京していると聞いていたが、電話をもらうのは初めてだった。その日の新幹線で帰るとのことだったので、東京駅の近くで待ち合わせをすることにした。会うのはじつに十数年ぶりだったが、約束の場所に流行のパンツスーツ姿で立っていた彼女を見逃すことはなかった。
中華料理店で食事をしたあと、まだ時間に余裕があったので、目についた近くのバーで軽く飲むことにした。
「じつはあたし結婚することになったの」
仕事帰りの勤め人で混み始めた店のカウンター席で、ジン・リッキーを片手に彼女はそう切り出した。なんだ、そんなことならグラスシャンパンにでもすればよかったとからかうと、この年で派手に祝うのは田舎では恥ずかしいことなのだと頬をふくらませた。三十をとう過ぎているとはいえ、恥じることではないとわたしは言ったが、まだまだそういう世間もあるのだ。きっと結婚することを誰かに大っぴらに話したかったのだろうと、それからは聞き役に徹することにした。
「母が生きてればすごく喜んだと思う。けっきょく最後までひとりだったし」
ぽつりと彼女は言った。
お母さんが亡くなったことは喪中のハガキで知っていたが、彼女の両親が離婚したことは知らなかった。彼女が三つになるかならないかの頃だったという。
一人っ子だと思っていた彼女には三つ年上のお兄さんがいた。事情は聞かされていないが、お兄さんは父方に引き取られたという。ずいぶん前にお父さんが亡くなったことを聞いたときにはさしたる感慨はなかったが、結婚が決まってからというもの、家族で住んでいた団地の公園でお兄さんに遊んでもらったことがしきりに思い出されてならないのだという。
「たったひとりのきょうだいだと思うと、なんだかね」
そう言いながら彼女は少し涙ぐんでいた。
「あのう、ちょっといいですか」
そろそろ出ようかと言い合っていたときのことだ。わたしの隣に座った男性客が声をかけてきた。
「失礼ですが、さっき話しておられたお兄さんって、もしかして××さんじゃないですか」
「そうです」
彼女は大きく目を見開き、腰を浮かせた。
「じつは……」
人の話をつい聞いてしまったことを詫びたあと、彼は、彼女の言う地名や、「家族で住んでいた団地」の名前に聞き覚えがあり、両親の離婚の話や、年回りが、知り合いに聞いた話とおそろしいくらい合致することに気がつき、黙っていられなくなった、と言った。
*
さて、そうして彼女はお兄さんと再びめぐり合うことができたのか。
東京駅の近くの会社に勤める男性客は、連絡を取りたいという彼女の頼みを快く引き受けてくれた。彼の知り合いは、本当に彼女のお兄さんだった。だが、二人はけっきょく会うことはなかった。
「だって会っても話すことはないし、もしかしたら迷惑かもしれないでしょう」
あっさりと彼女は言った。都下のマンションに家族とともに住むというお兄さんとは、一回ずつ電話をかけ合っただけだという。
現実とはそんなものかもしれない、とわたしは思った。けれども、あの日、初めて入った店で、偶然隣り合わせた男性が彼女のお兄さんの知り合いだったことには、ふしぎなめぐり合わせを感じている。
*
谷間ひともしごろ
いつも夢に見るは
なつかしき母の待つ
ふるさとの我が家
懐かしいメロディを口ずさみながら、わたしはきょうもひともしごろの街を行く。
(2003.10.31 H.S.)
〈参考資料〉小林信彦『人生は五十一から』第202回(「週刊文春」2003年10月30日号)ほか
When It's Lamp Lighting' Time In the Valley
谷間のともしび
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