twice up vol.12
お決まりでしょうか
ある夜、ふらりと馴染みのない店に入ったとしよう。
大通りを少し入ったところにあるクラシックな構えの店だ。ドアを押すと「いらっしゃいませ」と爽やかな声。カウンターの向こうには若いバーテンダーが一人、控えめな微笑みを浮かべている。客は着飾った男女一組と、勤め帰りとおぼしき男性が三人。静かだがリラックスした雰囲気だから常連客だろう。出入り口に近いスツールに腰掛けると、湯気の立つおしぼりと、革装のメニューが差し出される。いつも一杯目はダイキリと決めているが、はじめての店だ。礼儀上、ぱらぱらとメニューをめくっていると、女性客がバーテンダーと話の続きを始めた。
「それで××さんがね」
なんて言っている。
××さんはよく知られた人物らしく、やがて連れの男性と、その隣席の男性客も話に加わった。バーテンダーはこちらに目配りをしているが、客の話を中断させるわけにはいかないのだろう、相づちを打ちながら洗い物を始めた。さっき来たふりの客はまだメニューを手にしているからしばらくは大丈夫、と判断したにちがいない。
早く注文を取りに来てはくれまいか。
ああそれなのに、ますます盛り上がる愉快なお話。しょうがない、こちらから声をかけるとするか――。
*
そうして声をかけるタイミングをはかっているとき、もう一つの問題が発生する。それはバーテンダーに対する呼びかけ方である。馴染みの店、たとえばGeorge's Barなら「佐伯さん」と言えばいい。だが、はじめての店では、バーテンダーが特大の名札でもつけてないかぎり、名前で呼ぶことは難しい。つけていたとしても、最初から名指しではなれなれしい感じがする。かといって「すいませ〜ん」ではいい年をして恰好もつかない。「ちょっと、きみ」では威張りすぎであろう。
さりげなく手を上げてみるか。いや、これも気づいてもらえなければアウトだ。それにこの方法は引っ込みがつかなくなる危険がある。いつだったか、しまいには授業参観日の小学生のように高々と手を上げるはめに陥ったことがある。そうしてメニューの陰で逡巡しているうちに、刻一刻と時は過ぎて行く――と、そのとき、バーテンダーと目が合う。彼は笑顔を浮かべ、そして素早く歩み寄って来て、言った。
「お決まりでしょうか」
*
とまあ、こういうときの時間はむやみに長く感じるものだが、ちゃんとしたバーで無意味に放っておかれるということはまずない。逆に、注文するまで目の前で待たれているほうが気詰まりだ。「何にいたしましょうか」なんて言われると、じぶんがものすごいのろまになったような気にさえなる。
適当に放っておいてくれる。
これはオーセンティックバーの魅力のひとつだ。
適当というとなにやら雑な印象があるが、この場合は「ある状態や目的などに、ほどよくあてはまること」という第一義を採用したい。
人がバーに足を向ける理由はいろいろだが、とくに一人で飲みに行く習慣がある人に訊くと、「息抜き」と答える人が多い。そんなときに、のべつ話しかけられたり、カラオケの歌声が聞こえてきては逆効果だ。必要なのは、心地よい雰囲気、好みの酒、最小限の会話。
ほどよく酔いもまわり、そろそろ帰ろうかと腕時計に目を走らせて顔を上げると、すっと一杯の水が差し出される。一流のホスピタリティーを感じる瞬間である。
(2004.2.1 H.S.)
Copyright©2005 by Twice Up Web.
All rights and seats reserved.