twice up vol.3

ものごころ

「ものごころがつく」という言葉がある。多く、じぶんの子ども時代を語るときに「わたしがものごころついたころには云々」というふうに使う。辞書でものごころを引くと、「人情、世態などを理解する心」とある。
 わたしがものごころついたのは26歳くらいのときだったと思う。といっても酒を飲む上での話だ。それまでは酒を飲みたくて酒を飲みに行っていたわけではないし、その酒を飲みたくて飲んでいたわけでもない。誘われるがままにバーへ行き、すすめられるがままに、ビールやウィスキーの水割りなんぞを飲んでいた。銘柄を意識し始めたのはバーボンが流行してからのことだ。

 初めて飲んだバーボンはI.W.ハーパー。魚籃坂にある怪しいバーで、知人がボトルキープしていた。以来、わたしはバーボンばかりを飲むようになった。そのうち、ひとりで飲みに行くようにもなった。
「――さんは、おいくつになりましたか」
 ある夜、いまよりは少し若かった佐伯さんにそう訊かれた。「このあいだ30になりました」と、わたしはごく正直に答えた。酒場で年齢をごまかす趣味もない。それにしてもバーで年を訊かれるなんて、めずらしいこともあるものだと訝っていると、
「いい酒を少し飲むというのもいいものですよ」
 と佐伯さんは言った。
 そのとき佐伯さんがすすめてくれたのがマティーニである。佐伯さんは、わたしの飲み過ぎを戒めると同時に、バーでカクテルを注文することなど、はなから考えもしない客に、新しいものごころを授けてくれたのである。
 そして佐伯さんのマティーニは、わたしの永遠のオリジナルになった。どこで飲んでも佐伯さんのマティーニを超えるマティーニはない。

 佐伯さんのマティーニが進駐軍の下士官クラブ仕込みだということを知る人は多いと思うが、いかにしていまのようなスタイルになったかということについては、あまり知られていない。わたしが知ったのもごく最近のことである。そのときの会話を再現してみよう。

 ――初めてつくったカクテルを覚えていますか。
 マティーニですね。だから僕がいちばんこだわるのはマティーニ。最初はラッパのグラスを使ってたけど、しばらくして、いまみたいな方式になったんです。二重底で氷水が入って。
 ――あのグラスは昔からあったんですか。
 昔からありましたよ。ROCKER-FOUR CLUBのスタイルです。後期のROCKER-FOURのスタイルが、いまのうちのマティーニ。
 ――佐伯さんが考案されたのだと思っていました。レシピについては?
 四十年配のGIにマティーニつくって出したら、一口飲んでね、「エンプティグラス持ってこい」っていうんですよ。それで空のコップを出したら、中身をぜんぶ空のコップにあけちゃって、グラスを逆さまにして、伏せてポンと置く。「おまえのつくったマティーニはまずくて飲めない」っていう意思表示なんです。僕にとっちゃ侮辱ですよ。その頃は僕も若かったからね、カチンときてさ、ふてくされたの。そしたらその表情をGIが読みとって、「おまえね、マティーニはこんな作り方してたんじゃダメだ」と。「材料持ってこい、おれがつくってみせるから」と言うんです。それでジンとベルモットとオリーブと持ってって、つくったのがいまのスタイル。
 ミキシンググラスに氷入れてステアして、ベルモットついでステアして捨てる。リンスです。それでジンを入れて、オリーブのつけ汁をちょっと入れてステアしてグラスにあけて、最後にベルモットを。その当時はスプレーはありませんでした。
 それは強烈でしたね。これがマティーニかと思うぐらい。それで現在に至ってる。だからもうこれだけは誰がなんと言おうと本道を守りたい。いまはアメリカで流行っているからといって、コスモポリタンマティーニだとか、チョコレート入れてサバティーニだとか、いろいろある。マティーニって名前をつけなければいいんですけど。アメリカで流行るとすぐ真似する。本道からいちじるしく逸脱しちゃってる。あれは僕はつくらない。注文があっても。
 ――ドライマティーニを教えてくれた人の名前を覚えていますか。
 聞きませんでした。おれはいまユニフォーム着てるけど、シカゴでバーテンダーやってたんだって最後に言ってました。それきりもう二度と顔を出さなかったね。

 そのとき佐伯さんは20代前半。
「なにもかも懐かしいですよ」と、最後に佐伯さんは言った。そんな佐伯さんの修行時代の話は、また別の機会に。

ROCKER-FOUR CLUB
 千代田区内幸町にあった進駐軍の下士官クラブ。接収前は政友會本部。2つのバーと2つのボールルームがあり、ボールルームでは連日華やかなショーが催された。ROCKER-FOUR CLUBは昭和33年に解散。元政友會本部があった場所には、現在、東京電力ビルが建っている。