twice up vol.1
客の名前
はじめてのバーでじぶんから名を名乗る人はそうはいない。また、面と向かって名を訊かれることもまずない。
名乗る必要があるとすれば、事前に席を予約したときか、待ち合わせに遅れそうになって、店に電話をしたときくらいなものだろう。ときどき酒場で名刺を配るのが趣味のような人を見かけるが、そういう人は例外中の例外だ。
George's Barの佐伯譲二さんとの付き合いは十数年にもなるが、じつに長い間、わたしは「お客さま」であった。連れがいれば「そちらさま」「そちらさん」といったところか。そのうち名前で呼ばれるようになったが、わたしはじぶんから名乗った覚えはなく、いつ、どのようにして知られたのかは謎である。
いったいどうやって客の名を知るのか。
佐伯さんに質問してみたところ、「会話に耳をそばだてるか、その人が手洗いに行ったすきに、さりげなくお連れさんに訊くとかね」という答えだった。単純明快、特別なことでもなんでもないさ、というふうだ。ということはつまり、客の名を知る最初のチャンスは、お連れがいるときと考えていい。
それなら、思い当たることがある。
*
従兄弟を連れてGeorge's Barを訪ねた。彼がめでたく月給取りになった記念に、ちゃんとしたバーの一軒も紹介してやろうと思ったのだ。
店は混雑していた。手すきになるのを見計らって、わたしは佐伯さんに従兄弟を紹介した。それまで半兵衛を気取っていた佐伯さんの顔に、束の間、親しげな微笑みが浮かぶのがわかった。どういう従兄弟になるのか訊かれたので、母のきょうだいの子供ですというようなことを言ったと思う。
何日かたって、再びGeorge's Barを訪ねた従兄弟は、名乗りもしないのに売り上げ伝票にじぶんの名前が記されるのを見て驚いた。そして、その話を聞いたわたしも驚いた。従兄弟を紹介するにはしたが、忙しい合間を縫ってのことで、落ち着いて話をしたわけではない。従兄弟がトイレに立ったすき佐伯さんに訊かれたわけでもない。それに当夜の伝票にはわたしの名前が記されたはずだ。
「秘密のメモでもあるんじゃないの」と従兄弟は言うが、佐伯さんがそうしたものを照会している様子はない。
佐伯さんは、紹介したわたしでさえ、ちゃんと言ったかどうかおぼつかないような従兄弟の名前を確実に聞き取り、そして覚えていたのだ。
*
「特別な記憶術でもあるんですか」
早い時間に顔を出した日、わたしは訊いた。まだ、わたしのほかには客はいなかったから、教えてくれるかもしれないと思ったのだ。だが、佐伯さんは笑って答えてくれなかった。もしかしたら、じぶんでもよくわかっていないのかもしれない。
007は二度死ぬ。佐伯譲二は二度客に名を訊かない。
知られたが最後、George's Barの売り上げ伝票には必ずあなたの名が記される。
もし、カウンターの隅に座る機会があったら、書きものをする佐伯さんの手元をそっと覗いてみるといい。
(2002.12.1 H.S.)
Copyright©2004 by Twice Up Web.
All rights and seats reserved.